クスコのアルマス広場から南東へ2ブロック、インカの石組みが美しいLoreto通りとPampa del Castillo通りを抜けると、 ケチュア語で「黄金の神域」の意味を持つコリカンチャがある。スペインの征服者は17世紀に神殿の上部を破壊し、 インカの土台の上に現在のEl Convento de Santo Domingo(聖ドミニコ会教会)を建設した。
黄金の神域・コリカンチャ(QorikanchaもしくはQuri Kancha)は、黄金の帯を始めとする金銀による装飾で有名だが、
元々この場所は太陽の神域(Inti Kancha)と呼ばれ、神話上はインカの始祖マンコ・カパックも定住していたとされる。
インカの皇帝パチャクテク・ユパンキ(Pachacutec Inca Yupanqui)の時代、崇拝の対象の変化が原因でその呼び名が変わったという説がある。
クスコの征服後、フランシスコ・ピサロの兄弟フアン・ピサロが「黄金の神域」をドミニコ会に譲渡したのが始まり。
最初の司祭はメキシコから来た伝道師の一行と共に着任したフアン・デ・オリーアス師。当初の建物が完成したのは1633年で、
1650年の大地震では上部構造が深刻な打撃を受けたが、インカの土台は無傷のままだった。修復はその後1680年までかかった。
三棟からなる教会の建物には、1ヶ所のドームと杉に彫刻を施した美しい聖歌隊席、セビリア産の化粧タイルで装飾された壁がある。
1551年、教会の敷地内には国立サン・マルコス大学が創立された。これはアメリカ大陸で最も古い大学である。
教会の中庭。ここから雨水を排水するために使われていたと思われる三つの穴があり、
実験では穴の内部を叩くとそれぞれ「レ」「ミ」「ラ」の音階が聞こえたという
(捧げ物のチチャを流していたとも言われている)。
コリカンチャ前の広場。毎年冬至にはこの場所でインティ・ライミの祭典が催される。
この祭典の詳細はこちら。
コリカンチャではこのインカ時代の石組みが非常に素晴らしい。スペインの記録によれば、床や壁は金で覆われ、
中庭には金製の彫像が並んでいたという。また、カハマルカでスペイン軍に捕らえられたインカ帝国最後の皇帝
アタワルパを解放するため集められた金の大部分はコリカンチャから運ばれたと言われている。

左の写真はNicho Ceremonial Incaと呼ばれるニッチ(壁面に設けられる装飾用の凹み)で、インカ時代には崇拝の対象となるイメージや装飾品が置かれていたと
考えられている。縁の穴の用途には諸説あり、カーテンを結ぶため、ニッチそのものに扉を取り付けるため、あるいは内容物を支えるために設けられたと言われている。
1550年にコリカンチャを間近に観察した記録者ペドロ・デ・シエサ・デ・レオンは、このニッチを「インカの玉座」と記しているが、その根拠については定かではない。
スペイン副王の時代、元々あったニッチの
左半分はすべて壊され、写真のようにアーチを新たに取り付けて代議員サロンへの出入り口として使っていた。
1950年に起こった大地震の後、建築家オスカル・ラドロン・デ・ゲバラ率いる考古学調査隊は、アーチ建築の際破壊されたニッチに一致すると思われる石片を発見した。
その後副王時代のアーチは解体され、本来のニッチの欠損部位に再び嵌め込まれた。また、修復の過程で加工された部分もある。
A. 残っていた本来の部分
B. 1950年の大地震後、本来の石片で修復された部分
C. 修復の過程で加工された部分
テラスの石組み。クスコ市内や郊外に見られる遺構を含め、インカは巨大な石材を用い精緻な石組みを可能とした文明で有名だ。
地震の多いクスコでは、コリカンチャのように隙間なく台形に積み上げられた構造は耐震性に優れているというが、車輪を持たない、すなわち
石材の運搬ひとつにしても苦労したであろうインカの人々が、果たして容易にこのような構造物を作ることができたのだろうか。
一説には、インカ皇帝パチャクテクが、この精緻な石組みの技術を持ったティワナク(ティティカカ湖沿岸、現在のボリビアにある)の石工を クスコで働かせたとも言われている。
ティティカカ湖近くにチュルパと呼ばれる石塔墳墓で知られる、シユスタニという遺跡がある。プレインカ時代から続く墓所だが、 直前のコヤ文化(1200-1450)の石塔とインカの石塔では石組みの技術が明らかに異なっている。現代の専門家の理解をも超えるこの素晴らしい石造建築の技術は、
スペイン人の到来と共に幻となってしまったが、歴史の中に突如として現れたように見えるインカの技巧は果たしてどこからもたらされたのだろうか。